「津軽の火の玉石」
「弥彦神社」は、新潟県長岡市の北方にある。この神社は、越後平野西部の弥彦山山麓に鎮座し、弥彦山の背後は、佐渡島近くの日本海だ。 この神社で、「津軽の火の玉石」を見つけたというホットな情報と写真を、津軽研究会員の西川登美子さんから頂いた。 神社内の案内標識と「重軽の石」 ネット情報では 「重軽石」は他の寺社にも存在するが、「津軽火の玉石」は初耳だ。しかも越後で「津軽」とは驚いた。ネット検索したら、「彌彦神社にまつわる伝説」にたどり着いた。以下その概要を紹介する。 慶長年間(1596~1615)、弘前の城主、津軽候(二代信牧)が、江戸表より航路帰国の途中のこと、佐渡沖合で暴風雨に遭遇した。殿様は、弥彦山に向かって鳥居奉納を誓って神助を願ったところ、一同は無事帰国できた。 しばらくすると、毎夜のように、弘前城の天守閣を中心に城内を二つの火の玉が大きなうなり声を発しながらぐるぐる飛び廻る、という異変が起きた。調べたところ、この二つの火の玉石はちょうど大人の頭ほどの大きさの石だった。 津軽候は、彌彦神社に自分の誓願を果たしていなかったことを思い出し、元和3年(1617)9月、大鳥居を奉納したと伝わっている。同時に、この霊威を示した火の玉石も一緒に彌彦神社に納められた。 現在、この二つの火の玉石は、俗に「津軽火の玉石」とか「重い軽いの石」と呼ばれ、心願のある時これを持ち上げられれば事は成就し、上げられない時は叶わないと言われている。 文献資料では 国会図書館で見た、弥彦村教育委員会発行の「弥彦神社史話」(岡眞須徳著)には、この説明と同趣旨の文章の他にも、興味深い部分がある。 ①祈願文 同書には、「大鳥居奉献祈願文」なる古文書の写真も掲載されている。その文中と文末には「大施主津軽越中守藤原朝臣信枚公」と書かれている。 ② 信枚直筆の額 この祈願文には、「鳥居の額は信枚公の御真筆」と注記されている。その額に書かれた「弥彦大明神」の文字は間違いだとして、寛文8年(1868)2月に、「伊夜比古大明神」に直したという。(注:現在では、「弥彦神社」が使われている。) 津軽史では 二代藩主信枚から弥彦神社への大鳥居奉献など、弥彦神社との結びつきを示唆する記録は、津軽史の中では一切見つかっていない。 その意味では、弥彦神社の記録自体が事実かどうかの確認が必要だ。反面、何らかの事情で津輕側の記録が欠落している可能性も否定できない。専門家の見解を待ちたい。 私なりに、津軽史に関連付ければ、次の諸点が謎めいている。 ①帰国経路 前記のように「江戸表より航路帰国の途中」とあるが、江戸から津軽への帰国の際に、佐渡周辺を船で通行することはあったのか? 江戸からではなく、京都・大坂からの帰国なら、海路の可能性は高い。 そもそも、海路ではなくても、江戸から越後経由での帰国はあったのか? 信枚が参勤交代の途中で、側室・辰姫(元和9年(1623)没)の住む大舘(現太田市)に立ち寄っていたという伝説との関連もあるか? ②天守閣 信枚が二代藩主となったのは慶長12年(1607)で、高岡城(現弘前城)に移ったのは慶長16年(1611)とされる。当初の天守閣は、元和3年には存在したが、寛永4年(1627)に炎上した。天守閣と石が「火」でつながっているようにも見える。 ③国替え 信枚は元和5年(1619)に、津軽から越後への国替えを命じられたが沙汰止みとなっている。信枚の書状では国替え先が越後となっているのに、津軽史の記録はなぜか移転先が信濃川中島と称され、越後は隠蔽されている。 位置概略図 【弥彦神社へのアクセス】 上越新幹線・燕三条駅からJR弥彦線で弥彦駅下車 「東京と青森」2017・3から転載 #
by kasatetu
| 2017-03-14 09:54
| 国内での津軽探訪
「幻の青函連絡船」 青函連絡船を職場としていた方の幾人かは、現在も青函連絡船の「語り部」として活躍中だ。その中の一人、安田さん(青森市出身。元一等航海士)から、「幻の青函連絡船」の歴史を教わった。 第九青函丸は、1945年2月浦賀で竣工し、横浜から函館への回航途中、川津(千葉県勝浦市)沖の暗礁に乗り上げて沈没し、13名が行方不明となった。アメリカ潜水艦の攻撃に備えて、海岸に接近して航行中のことだった。青函連絡船として建造されながら青函航路に就航できなかったことから「幻の」と冠称されているそうだ。 津慶寺 この遭難現場辺りは海難が多く、近くにある津慶寺(しんけいじ)では毎年8月16日に、過去の水難者の供養が行われているという。この供養の対象には、第九青函丸での遭難者の他にも、青森県に関係する船での遭難者二百人以上がいる。 それは、1869年2月14日(旧暦では正月2日)に熊本藩の傭った米国船に乗込み、函館へ向かっていた熊本藩士で、200人以上が犠牲になったハーマン号事件での遭難者だ。この軍勢は、弘前藩主(承昭)からの依頼で、彼の実家(細川家)が派遣した一行だった。 津慶寺の庭先には、大きな石碑がある(写真)。1892年に建てられた慰霊碑だ。 (旧藩主達も寄付した碑) 石碑と並んでいる円筒状の錆びた物体は、ハーマン号の船具を引き上げたものだ。 (キャプスタン=巻上機) 官軍塚 津慶寺から10分ほど坂道を登ると、見晴しのよい高台に着く。ここには、ハーマン号の遭難から百年後の1969年に建てられた「官軍塚之碑」がある。碑文は次の通り(抜粋)。 ~(ハーマン号は)暴風雨に逢い、不幸この地根中岩礁に難破した。/ この時川津村民は、村をあげて決死的救助に努めたが、ついに二百余名の死者を出すに至った。村民深くこれを哀れみ、ここ花立台に葬り、官軍塚と称し香花を絶やすことなかった。~ 郷土の誇りへ このように現地での慰霊は続いていたものの、残された情報は国内に限定されていた。 元外国航路の船長であった勝浦市民(大野さん)は、この救助活動を勝浦市民の誇りとして伝承する活動を行うほか、外国人船員についての情報収集に努めている。 大野さんは、房総沖で海難事故に遭った各国船舶の乗組員救助は、「日本が世界中から信頼されることにつながった」と、講演しているという。 ハーマン号の慰霊については、米国人遭難者の慰霊も含めることとし、2012年から2月14日に日米合同慰霊祭が行われ、米国大使館員も参列している。 両国回向院の供養墓 両国橋の東にある回向院は、火難・水難等の災害で犠牲となった人々の供養塔が多数建てられている。その中に、大きな墓石がある。 (溺死四十七人墓) 「肥後軍艦一隻以明治二歳~」で始まる文章を読むと、ハーマン号事件で遭難した歩卒四十七人のための供養墓で、同年三月に富岡氏などによって建てられたことがわかるが、四十七人の名前や建碑者の詳細は不明だ。この碑の台座にある「山鹿屋」と富岡氏の関係も不明だ。なお、「山鹿屋」は、熊本藩に要員を派遣していた商人(口入屋)だったという。 大塚西信寺の供養碑 文京区大塚五丁目の西信寺には、梵字で篆額の書かれた石碑がある。その碑文は次の通りだ。 “明治二年正月三日総州夷隅郡川津村於海岸破舶溺死亡霊永代供養碑/(溺死者三十名の戒名と俗名略)此外軍艦同船溺死霊魂一切菩提/同年三月三日建之 施主伏見屋善八“ (溺死亡霊永代供養碑) 内容から見てハーマン号事件の供養碑であることは明らかだ。すべての戒名に「海」の文字が見られることと、俗名が名前だけであることが、目につく。施主である「伏見屋善八」についての記録は見つかっていない。供養されている三十名について、回向院碑との重複・異同は不明だ。 細川援兵調 弘前藩の資料「細川援兵調」によれば、海難後の熊本藩は、百十五人の軍勢を陸路、追加派遣した。 また、明治二年八月には、弘前城下で「細川氏援兵溺死者招魂祭」が行われた。対象となった二百八人の中には、「通日庸雇夫」と一括された五十人も含まれている。この中に外国人船員は、含まれていないようだ。 「東京と青森」(2017・2月号)から転載 #
by kasatetu
| 2017-02-13 17:40
| 国内での青森県探訪
① すみだ北斎美術館
海外でも著名な浮世絵師・葛飾北斎(1760~1849)は、本所割下水(現墨田区亀沢周辺)で生まれ、生涯のほとんどを同区内で過ごしたと言われる。 2016年11月22日、墨田区の「すみだ北斎美術館」が開館した。同館のHPには “北斎の作品を保存・展示してその魅力を後世へ伝える場として、また「すみだブランド」をはじめとする地域の産業や観光を世界へ向けて発信する拠点になります。“とある。 (「すみだ北斎美術館」の外観。公園では「弘前の贅沢」販売中) 敷地については、“ここにはかつて弘前藩津軽家の大名屋敷があり~北斎ともゆかりの深い土地です”と津軽との縁が強調されている。 美術館の最寄りバス停は区内循環バスの「すみだ北斎美術館前(津軽家上屋敷跡)」だ。停留所の目前には、「津軽の太鼓・津軽家上屋敷跡」の説明板がある。 (バス停に「津軽」の文字) ここは、江戸東京博物館(都営地下鉄両国駅)と錦糸町駅前の「津軽稲荷」との中間にあたる。 ②「幻の作品」 この美術館の中心となるのは、ピーター・モースや楢崎宗重等が収集した北斎作品と、同館独自の収集品だ。「幻の作品」も展示されている。一つは、海外に流出後所在不明となっていた「隅田川両岸景色図巻」という、7mの絵巻だ。両国橋上の大名行列を横目に、小舟に乗込む男達の姿から始まり、隅田川の両岸を描写し、吉原の屋内図で終わっている。 もう一つは、大絵馬「須佐之男命厄神退治之図」で、向島の牛島神社に奉納されたが、関東大震災で焼失した作品だ。モノクロ写真を基礎に、彩色復元する過程の記録画像も見ものだ。 北斎が津軽家のために、屏風絵を画いたという説があり、弘前市立図書館に調べて頂いた。 明治26年発行の「葛飾北斎伝」(飯島虚心著)には、“(北斎)屏風一双を画きたり。その画は野馬群遊の図にして、今も津軽家に存せり~”とある。 また「松野コレクション物語り」(東奥日報社)には、 “浮世絵史には、津軽家からは馬の屏風をかかせたと記されている~が、(どこにも)残っていない。”とある。 弘前市出身の作家・今東光は、小説「北斎秘画」の題材として、この伝説の屏風を取上げている。 ③藩邸の移転と本所開発 弘前藩の上屋敷が、神田から本所へ移転を命じられたのは、1688年だった。これについて、津軽史では、4代藩主信政の息子の養子先、那須家の御家騒動との関連が強調されてきた。 他方、最近の研究では江戸市中の狭隘化に伴う、幕府の都市政策との関連が指摘されている。美術館建設に先だって行われた、上屋敷跡の発掘調査の説明では、本所開発途中の一部を大名家の負担で、整備させるという政策が紹介されていた。 ④津軽家と本所周辺 上屋敷の敷地は、最大で二万六千㎡もあり、南北は二百四十m、東西は百十mの、広大な長方形だった。 上屋敷の表門は敷地の南側(京葉道路側)で、緑二丁目のレストラン前(寿座跡)には、区教育委員会が建てた「表御門跡」案内板がある。 (上屋敷表門の案内板) 本所小泉町で育った芥川龍之介は、「本所両国」という作品の中で “「津軽様」などといふ大名屋敷はまだ確かに本所の上へ封建時代の影を投げかけてゐた。”と、明治初期の思い出を書いている。池波正太郎の小説にも津軽屋敷が登場する。 現在墨田区内の地名には、「津軽」も「弘前」も存在しないが、かつての本所は、「津軽様」の存在感が濃厚な地域だったようだ。 ⑤津軽との交流 墨田区には江戸時代の史料が少なく、区では弘前藩の記録を参考に、本所開発の詳細を把握したという。 11月21日の開館式典には、弘前市幹部も参加した。今般の開館イベントでも美術館内には、弘前市を紹介するコーナーがあり、金魚ネプタ、弘前ネプタが飾られ、浮世絵とネプタ絵との関係についても、説明されていた。これらのネプタは、27日夕方に、小雨の北斎通りを運行した。 (展示された弘前ネプタ) 墨田区と津軽の交流はほかにもある。例えば、津軽稲荷関係者による交流が続けられている他、北斎祭りでの金魚ネプタ作りやネプタ運行も行われてきた。当県人会も、2013年6月に、上屋敷跡見学会と講演会「本所・弘前藩邸~すみだの歴史」を開催した。 今後、北斎美術館を活用して津軽の情報を国内外に発信できるよう、津軽のアイデアに期待する。 逆に、在京者を含めた津軽人は、北斎美術館とその周辺を散策して津軽の歴史を外部から見直すきっかけとして欲しい。 (周辺略図) 「東京と青森」2017・1月号掲載記事に加筆 #
by kasatetu
| 2017-01-13 21:11
| 東京での津軽探訪
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