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回向院と津軽

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 吉良邸討入り事件の跡地近くにある回向院は、明暦3年(1657年)の大火被害者を回向した場所に造られたお寺です。その縁で、火難・水難等の災害で犠牲となった人々の供養塔が多数建てられています。ここでは、江戸で処刑された人々の供養も行われたようで、「鼠小僧次郎吉の墓」の前はいつも賑わっています。
 その鼠小僧のお墓に向かって左手に、「溺死四十七人墓 山鹿屋」と彫られた、大きなお墓があります(右写真)。
「四十七人」とは、「忠臣蔵」を連想させる人数ですが、「溺死」とありますから、それとは無関係のようです。
 このお墓の右横に彫られている、「肥後軍艦一隻以明治二歳~」という文章を読むと、肥後熊本藩の軍艦が夷隅郡川津村沿岸で遭難し、死亡した二百六十余人の中でも、四十七人の歩卒のための慰霊墓であることがわかります。
 彼等は、戊辰戦争の最終局面で官軍となった津軽藩主承昭が、実兄の熊本藩主(細川護久)に依頼した軍勢だったのです。幕末の津軽藩は、京都を中心に、細川藩と連携を図りながら、混乱する政局を乗越えようとしていました。この援軍は、その一環だったのです。
 結局、細川藩は、陸路派遣された軍勢で函館戦争に参加しました。弘前藩では、これらの援兵と遺族に慰労金を贈るとともに、明治3年8月19日には、弘前郊外で「細川氏援兵溺死者招魂祭」を施行しています。
 
 遭難現場の海岸(現・勝浦市)には、「官軍塚」があります。
 川津・津慶寺では、現在も、毎年供養が行われています(2003年9月の熊本県知事挨拶)
 詳しくは次を参照してください。
ブログ内 ・官軍塚の碑
勝浦市 ・官軍塚 

回向院と津軽_d0016131_165129100.jpg また、熊本市横手町安国寺境内に「上総洋溺死碑」があります(左写真)。
詳しくは次を参照してください。 
・ハーマン号沈没事件 
・桑の弓鬼太朗 

[追記1]
 2010.6.14の東奥日報によれば、弘前市で開催された全国城下町シンポジウムで、「ハーマン号沈没事件」が紹介されたそうです。

[追記2]
 この事件を記録した絵巻物が発見されたという記事が、2010.12.26の「熊本日日新聞」に出ていました。
 http://kumanichi.com/rural/rekijyo/20101226001.php

[追記3]
 2013.2.14の毎日新聞によれば、(新暦換算)遭難日の2月13日には、勝浦で慰霊祭が行われ、米国公使も参列したそうです。
by kasatetu | 2010-04-18 22:28 | 東京での津軽探訪
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