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官軍塚之碑(勝浦)

 房総半島の太平洋岸、勝浦灯台の近くに「官軍塚」があります。
 明治2年1月に勝浦沖で暴風雨にあい沈没した、熊本藩の傭船に乗込んでいた遭難者が、地元の川津村民によって葬られています。

 「官軍」と名前が付いているのは、「蝦夷共和国軍」(榎本武揚等)を攻めるために派遣された、肥後熊本藩士が多数犠牲になったからです。
 
  彼等は、戊辰戦争の最終局面で官軍となった津軽承昭が、熊本藩主で実兄の細川護久に依頼した軍勢だったのです。
  また、藩士だけではなく、武器も海底に沈みました。そのため津軽藩は、替わりの銃器の購入を大倉喜八郎に発注しました。大倉は銃器の津軽への輸送に成功し、政商としての第一歩を踏み出します。

  水中に眠る「ハーマン号」は、水中考古学者の関心を引き、水中発掘のプロジェクトもあります。

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  岬の先端に立つと、齋藤茂吉の歌碑
ひく山は 重りあひて おのづから 小さき港と 成りゐたりける 」
そのままの風景が、広がっていました。

 



 「官軍塚之碑」は昭和四十四年二月八日、百年忌を記念して建立されました。また、川津津慶寺には遭難者の過去帳と熊本藩兵埋葬の碑が残されています。
 現在も、毎年供養が行われています(2003年9月の熊本県知事挨拶)。
この碑の題字「官軍塚之碑」を揮毫した「細川護立」とは、細川元首相の祖父(護久の子供。白樺派の後援者としても知られてるいます)で、この碑が1969年に建てられた、翌年に没しています。

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  この由来碑の近くには、熊本市内出身の俳人、中村汀女の
香焚けば 情こまやかや 春の海
という句碑もありました。
  勝浦にある国際武道大学の創立者、松前重義も熊本県出身です。

参考図書
 熊本歴史叢書 第5巻 「近代 細川藩の終焉と明治の熊本」(熊本日日新聞社発行)所収
 「 最後の殿様~承昭と列藩同盟、ハーマン号事件」 瀬戸致誠(熊本大学非常勤講師)
「鯰・大倉喜八郎」(大倉雄二 著 1995 文春文庫)


[追記]
 2010.6.14の東奥日報によれば、弘前市で開催された全国城下町シンポジウムで、「ハーマン号沈没事件」が紹介されたそうです。
by kasatetu | 2005-03-31 22:18 | 国内での津軽探訪
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