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杉浦譲の碑(谷中霊園 → 撤去)

 谷中霊園には、明治4年3月1日の郵便創業当時の事業責任者(駅逓権正)であり、同月10日に初代駅逓正となった、杉浦譲の墓碑があります。
(谷中霊園 乙三号七側)
 その碑文は、私の理解では、次のような内容です。

内務大書記官兼地理局長・従五位杉浦君の墓銘
(甲府での成長)
 君の本名は譲(ゆずる)、別名は子基(しき)、雅号は温斎(おんさい)。杉浦家は、代々甲斐の国勤務の幕臣為り。幼時より聡明にして、長じては讀書作文とも、群を抜いていた。嘉永六(一八五三)年の應試に合格し、甲府学校の教授試補と為った。
(江戸と駿河時代)
 文久元(一八六一)年には、外国奉行支配書物出役と為り、定役に抜擢された。その時、君は未だ家督を承継していなかった。例の有らざる所だと、人は皆之を榮とした。池田・河津両氏のフランス出張に随行し、帰国後、調べ役と為った。又、向山氏のフランス博覧会への赴任に随行した。帰国後は、組頭勤め方と為ったが、明治維新に直面した。徳川氏が駿河藩に移ると、君は家族と共に転居した。
(維新政府での歴官)
 民部省勤務を命ぜられ、明治三(一八七〇)年任驛逓権正(えきていごんのかみ)に任ぜられ、さらに少内吏となった。盖して言えば、君は新政府に勤務を命ぜられてから、僅か一年有半の短期間に九の官を遷った。君は感激し自から奮励し、言葉もない程であった。明治五(一八七二)年十月には、権大内吏と為り、従五位に叙せられた。明治七(一八七四)年に、参議大久保公が内務卿に為ると、古今の実務に通じた諸吏務者を求めた。君は選ばれて大丞兼地理寮頭と為った。時は廃藩置県之直後であり、地租改正の事務は多端であった。君は従容として措置し、人は其の能力に服した。明治十年には、内務大書記官兼地理局長と為った。
(精勤と病没)
 君は持病が未だ快癒しないのに、五月、中部地方の山林を巡視し、力疾した。風雨を冒し煙のような靄を衝いて進んだので、病気は益々悪化し、咳は已まなかった。然しなお日々、文書を省みた。人或いは少しの休息を勧めたが、君は吾職を尽くすのみと答えるだけであった。ついに労が積って没したのは、八月廿二日のことであった。天保六(一八三五)年九月二十五日生まれで、年齢四十一(実は四二)であった。訃報が上聞に達して、葬祭金五百円を賜った。東京府北天王寺墓域(現在地)に葬られた。
(人物像)
 君は孝にして友を成す性質で、上に対しては敬い奉り、弟妹や一門に対しては、春の如く温和に接した。 友誼に篤く、恵を施すことに務めた。例えば、楽善會(訓盲院)で、君はその幹事であった。時に漢詩の吟詠に耽り、清麗にして拘りがなく、傳えるべき作品が多い。考えれば、(父)蘐翁は君より五年前に没したが、母はなお存命である。夫人は、松山氏から嫁いだ人である。息子の燾太郎など皆が、予に墓銘を託すので、このように撰文した。
(思い出)
 嗚呼、予と君が交りを結んだ時、君は未だ甲斐に住んでいた。同じく海外での役目を務め、 又同じく駿河に遷り、又同じく檄を奉じて都に入った。離合の時もあったが 会えば手を握って、歓笑し、世を論じ、心を開いて語りあった。榻に座って、長時間に及んだ。二十余年は一日の如し。知己、相許すは、ただ吾ら二人。予は君より五歳年長だが、年少者が亡くなり、年長者が残った。今筆をひたして其墓銘を書くと、予は覚えず涙がじわじわと下る。銘に曰く
  盡瘁まで鞠躬とし  生死はそれ自身にまかせ
  下の衆望に副い   上の所知に報いる
  命の永からざるは  君の自から期す所
  君は既に自から期す はた亦なんぞ悲しまん
(後書き)
 外務大書記官従五位の田邊太一が撰文し、太政官大書記官従五位の巌谷修が書いた。
 嗣子の杉浦燾太郎が墓碑石を立て、広群鶴が彫った。明治十一年八月二十二日 

杉浦譲の碑(谷中霊園 → 撤去)_d0016131_20151048.jpg(参考までに、横書きにした、文面をそのまま載せます。)

内務大書記官兼地理局長従五位杉浦君墓銘
君諱譲字子基号温斎世為幕臣家於峡幼聡頴稍長讀書属文動壓等輩嘉永六年応試得第授峡府学教授試補文久元年為外国奉行支配書物出役尋擢定役時君未承家例所不有人皆榮之随池田河津両氏使於佛郎西帰為調役又随向山氏赴於佛郎西賽奇會帰為組頭勤方會時事大変徳川氏就藩於駿君亦挈家而遷焉既而徴於民部省明治三年任驛逓権正歴官至少内吏盖自君膺徴命僅一年有半而九遷官君感激自奮知莫不言五年十月為権大内吏叙従五位七年参議大久保公為内務卿求通古今諸吏務者君被選為大丞兼地理寮頭時際廃藩置県之後改正地租事務多端而君従容措置人服其能十年為内務大書記官兼地理局長君有宿疾未愈五月力疾巡視關左山林冒風雨衝煙瘴疾益劇咳嗽不已然猶曰省文書人或勧其少息曰盡吾職已竟積労歾實八月廿二日也距生天保六年九月二十五日得齢四十一訃聞賜賻金五百円塟東京府北天王寺塋域君孝友成性上奉高堂下撫弟妹一門之内雍穆如春篤於友誼務恵施如楽善會君幹其事時耽吟詠清麗宕逸多可傳者考蘐翁先君五年歾而老母猶存嬬人松山氏男燾皆託予以墓銘嗚呼予与君締交在君未出峡之日而再同役於海外又同遷於駿又同奉檄入都雖時有離合而方其握手歓笑論世譚心対榻剪燭二十余年如一日矣知己相許唯吾二人而予長君五歳少者亡長者存今沘筆銘其墓予不自覚涙之涔涔下也銘曰
  盡瘁鞠躬  生死以之  下副衆望  上報所知
  命之不永  君所自期  君既自期  将亦爰悲
    外務大書記官従五位田邊太一撰  太政官大書記官従五位巌谷修書
明治十一年八月二十二日 男杉浦燾太郎立石       広群鶴鐫



【追記  2017.2.12】
 久しぶりに掃苔したところ、この墓域は撤去され更地になっていました。遺骨は少し離れた立体埋蔵使節に収められそうですが、墓誌には見当たりませんでした。
 あの墓碑かどこに移されたのか、気になるところです。

by kasatetu | 2009-06-05 06:25 | 杉浦譲
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